

「秋」
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「ママ!」
呼ばれて振り返る、幼稚園の園庭。
青いスモッグに黄色い帽子をかぶった息子が駆け寄ってくる。
小さな手には、丸められた画用紙がぎゅっと握りしめられている。
「おかえり! 今日はどうだった?」
からだ全体で飛び込んでくるエネルギーのかたまりを受け止め、小さな幼稚園バッグを受け取る私。
「きょうは、ママにプレゼントがあるんだよ! みてみて、これ、ぼくがかいたの!」
息子は力いっぱい握りしめていた手をほどき、少ししわのよった画用紙をくるくると広げる。
画用紙には金の花丸シールが輝き、クレヨンの色彩が幼い夢と希望を物語っていた。
「うわー! すごくじょうずに描けたね! とってもきれい。これはママかな?」
右側に描かれた、ふたつ結びのかわいい女の子。
長く伸びた左手は、ぐるりと頭の上を通り、画用紙の頂点ギリギリで左側の人物と手をつないでいる。
「そうだよ! これがママでー、こっちがパパ! これはぼく」
真ん中には、顔いっぱいの笑顔。「ぼく」と書かれた文字。
「ぼく」は両手でママとパパと手をつなぎ、満足そうな表情で画用紙に鎮座している。
「この三角はなあに?」
3人の口元には、三角形のマークがそれぞれ描かれていた。 息子は、腕を曲げても出てこない力こぶをつくって技の名前のように叫ぶ。
あれから十数年。
息子の渾身の力作「おにぎりパワー!」は額縁に入れられ、たくさんの旅行写真とともにリビングに飾られている。
秋の深まりを感じさせる11月の朝。
紅葉した木々の葉が風に舞い、窓の外は秋色に染まっている。
私は湯気が立ち上るコーヒーを片手に、キッチンの風景を眺めていた。
休日も早起きの夫と、野球の秋季大会の予選当日に緊張で目覚めた息子。
標準的な高さのキッチンで、ふたりとも少し身をかがめながら夫は洗い物、息子は水筒にお茶を入れている。
少し遅く起きた私は「手伝うよ」と言ってキッチンに立ってみたものの、狭いからと早々にスタメン落ちした。
大切なイベントの日には、験担ぎにおにぎりを握って食べる。
いつの間にかできた我が家のルールだった。
七五三、旅行、高校受験、ライブの当落発表日…。
「今日はおにぎり」と誰かが言えば、たとえケンカして数日間口をきいていなくても、その人のために米を炊き、具を揃え、ひとつひとつ心を込めて握る。
夫と息子。 肩を並べた姿を見つめて、もうすぐ息子が夫の身長を追い抜きそうなことに気づいた。
小さかった頃。 私が朝ご飯を作る手元を、うんと背伸びして覗き込んでいた。ついこの間のようでいて、はるか昔のようにも感じる。
家族は、最初から家族としてあるものじゃない。
たとえば、こんなささいなおにぎりのルールが、私たちをつなぎとめ、家族というかたちをつくりあげているのかもしれない。
家族になる。
そのスピードは、爪が伸びるよりも、髪が伸びるよりも、きっともっと遅い。
キッチンカウンターには、やわらかな角度の三角形が列を成していた。
「ひーふーみー」
ざっと十五個の、おにぎり大名行列。
「こりゃまたたくさん作ったね。内訳は?」
「俺が十個。朝練で二個、昼飯で五個、試合後に三個とコンビニ」
上腕二頭筋に力を込めて、それはもう鍛えているからねアピールする息子。
「あとは父さんと母さんが食べてよ」
「五合炊いて、冷凍庫のごはんも使ったから、あとでお米買いに行こうか、ママ」
お米を買ってもすぐになくなる。 怪獣を育てる感覚って、こんな感じなのかもしれない。
「試合、頑張ってね。パパと見に行くからね」
クーラーボックスにスポーツドリンクとおにぎりを詰め込む後ろ姿に声をかける。
「別に、来なくていいよ」
本音なのか照れ隠しなのか、平坦な声で返ってくる。
反抗期の扱いはむずかしい。
「お米買いに行くついでに見るだけだから」
と言い訳をして、キッチンカウンター越しに夫と目だけで笑い合った。
季節が毎年同じように繰り返されても、見ている風景は異なる色合いや表情を見せる。
息子はいつの間にか「父さん、母さん」と呼ぶようになった。
大きくなった背中、手。小さい頃は壊してしまわないようにそっとその小さな手を握っていたのに。
置いてきぼりをくらったかのように、私たちはまだ自分たちのことを「パパ、ママ」と呼び続けている。そのことにふと気づく瞬間、心が少しざわつく。
黄色、オレンジ、赤のクレヨンで塗られたような並木道。
ざくざくと落ち葉で埋め尽くされた公園を歩いて、球場へと向かった。
途中からなら「来なくていい」の範疇だとわざと遅れて見に行く。
7回裏。適当な観戦席に座る。
温かいお茶とおにぎりを取り出して、一息ついたところで、ツーアウト満塁。
「あ、ほら出てきた」
試合を横目に丁寧にラップを外しおにぎりの一口目をかじったとき、バッターボックスに息子が登場した。
夫が「かっとばせー!」と声援を飛ばす。息子がちらっとこちらを見た、気がする。
「ボール」審判の低い声。
一口目に、おにぎりの具はあらわれなかった。
二口目をかじろうとしたとき、カーン!という音が響いた。
二人とも声を上げて立ち上がり、力を込めておにぎりを持つ。
「いったー!入れっ、入れー!!」
ボールはまるであっちの方向に呼ばれたかのように、放物線を描いて。高く、大きく、飛んでいった。
「入ったー!」
力をこめたおにぎりから、こんぶのつくだにがのぞいていた。
はしゃぐなんて、何年ぶりだろう。興奮でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
ホームに戻った息子はおどけてチームメイトにハイタッチ、すぐに私たちを見つけ、おにぎりをかじるポーズで力こぶ。私もおにぎりを持って、それを真似した。
いつか息子も家を出るだろう。その日もまた、おにぎりを握るのだろう。
「ひとりで、大丈夫?」
私の問いに、息子は迷わず笑ってこう言うだろう。
「心配ご無用!」
未来へ向かう息子の後ろ姿を見送る。
夫が目をこすりながら呟く。
「たまには帰ってくるさ、ね。…ハルさん」
「…そうね、そのときもまた」
息子が最後の曲がり角で不意に振り返り、おにぎりをかじるポーズ。そして、みんなで力こぶを作った。