

「夏」
SCROLL
「ただいま~」
蒸し暑い部屋のドアを開ける。
この部屋に引っ越してから2日目。
玄関に鞄を置き、ジャケットを掛けた。
積み上げられた段ボール、少しドブ臭い洗濯機置き場、磨き上げられたキッチン。
日に焼けた床の色や、壁に残る押しピンの跡が、まだどこかよそよそしく感じる。
鍵がガチャンと音を立てて閉まる。空っぽの部屋に響く音が、少し気になる。
入社式、新人研修が終わると、季節は夏になっていた。
所属先の発表から、引っ越しまでわずか1週間。社会人はみんなこんなスピードで生きているってマジか。
明日から勤務する営業所に挨拶へ行き、いつもより早く業務終了。
穏やかそうな上司でよかった。

空気を入れ換えるために掃き出し窓を開けると、強い西日が差し込んできた。
思わず顔をしかめながら、またぎ段差を越えベランダに靴下のまま降りる。
商店街に近いこの場所は、夕方のこの時間になると人通りが多くなり、心なしか賑やかだ。
5階にあるこの部屋に向かって、湿った風が下から上がってくるのを感じた。
ビィビィとゴムを弾いたような奇妙な音を立てて、チャイムが鳴った。
壊れているのか管理会社に相談した方がいいのかも、そう思いながら「はーい」と返事をする。
来訪者は宅配便で、送り主は実家の母。
箱の中には、米、家庭菜園で収穫した茄子、胡瓜、紫蘇、数種類の缶詰と、ご丁寧に缶切りまで入っていた。
それから醤油、ごま油、塩、砂糖。緩衝材には、送るよう頼んでおいた田舎の自室のカーテン。
さっきから、開け放した窓から西日が橋のように部屋を横切っている。
時間が経つごとに光は強さを増し、いいかげんその先に異次元へつながる扉が現れそうだ。
野菜たちに挟まっているカーテンを引っ張り出し、ギリギリ届きそうなカーテンレールにぐっと背伸びをして取り付けた。
かち、かちと音を立ててアジャスターフックがはまっていく。
十数年ものの馴染み柄のカーテンは少し短くて、窓の下が20センチほど開いてしまった。
ださい…と思わずつぶやいたけれど、しばらくこのままでも誰が構うものか。
ぬるくなったペットボトルの麦茶を飲み、床に寝転がった。見知らぬ天井と目が合って、気まずくなって目を閉じた。
いつの間にか眠ってしまっていた。
カーテンの隙間から延び続ける光の橋に朱色が混ざり始め、タイムリミットが迫っている気がして慌てて立ち上がる。
日が暮れる前にコインランドリーへ行かないと。汗をぬぐい、数日前から溜まりっぱなしだった洗濯物を袋に詰め込んで、急いで部屋を出た。
商店街は、どうやら夏祭りらしい。
商店街の脇にあるコインランドリーに洗濯物を放り込み、少し散策することにした。
提灯には商店街に連なる店の名が筆字で力強く書かれ、ぼんやりと薄く灯っている。
紫陽花、朝顔、花火の色が舞う浴衣の子どもたち。
右上を見て舌を出した奇妙な顔つきのぬいぐるみは、射的だと欲しくなる不思議。
焼きそばの焦げる音、カステラの甘いにおい。
キャラクターのお面が並ぶ屋台の前で泣きわめく子ども。これでもかと手を強く引かれて苦笑いの父親。
いつかどこかで見たこの感じ。
懐かしいようで、知らない街のまるで知らない祭。
今日も明日もこの地元で過ごしていく安心した人たちの笑顔と、地元を離れ、コインランドリーで回る洗濯物を見ながら、心の中で感じるひとりぼっちの実感。
3ヵ月の新人研修は、同期たちとともに慌ただしく過ごしていき、さみしさを感じる暇などなかった。
そのギャップのせいかもしれない。
自分は今この街にひとりぼっちだということを、突如、実感してしまった。
ここでしばらくやっていけるのだろうか。
いってきますも、ただいまも、
いただきますも、ごちそうさまも、
言ったところで誰も返事してくれないこの街で。
この先の想像がつかなくて少々不安になる。しかし、進むしかないのはわかっている。
始まってしまえば引き返せない祭のように。
ひとりぼっちだと、急にさみしさが湧いてきた。
喉の奥がぎゅうっとなって、田舎にいる家族の誰でもいいから声が聞きたくなる。
携帯電話を取りだして、履歴の一番上の番号を押す。
「もしもし、お母さん」
少し声が震えたかもしれない。
「はいはい、どうしたんや。
仕事は?ちゃんと食べてるんか?」
「今日は挨拶だけや。
部長、いい人そうやったわ。明日から大丈夫そう」
驚きと心配が入り交じったような母の声を拭うように、努めて明るい声を出す。
「そう! よかったなあ。
うしろ、なんか賑やかやけど?」
「ああ、今、祭やってるねん。
近所の商店街。賑やかでええところやわ。
めっちゃカステラのにおいするで」
「楽しそうやんか。
次はいつ帰ってくるんや?
あんたの好きなもん、
ようさん用意して待ってるさかい」
「次はお盆。出張でも寄るよ。
あとな、さっき届いたカーテン短かったわ」
「ははは。短かったんか。
送った野菜は簡単に焼いて
味つけしたらええわ。
そのままでもおいしいで」
「いつもお母さんは何で味つけしてんの」
「ごま油と塩。真似してみ。
あとはちゃんと食べて、
しっかり寝ること。
なんかあったらいつでも
帰ってきたらええんやから」
「大丈夫や、ありがとう。
・・・ほな、切るで」
「ちゃんと食べてるんか?」
いつもなら聞き流してしまう母の決まり文句。
自分のことを気にかけてくれる人がこんなにうれしいだなんて。
泣きそうな声はしていなかっただろうか。
心配させるようなことは言わなかっただろうか。
ちゃんと食べて、寝る。
毎日をそうしてぐるぐる繰り返しているうちに、ここでの日常は自分に馴染んでくるに違いない。
母の声を聞いたら、ここでの自分もきっと大丈夫だと思えた。
甘くて香ばしくて、なつかしくて、どこか遠い。
もう少しこの祭を楽しんでみよう。
祭囃子が遠くから響き、自然と足がその音に引き寄せられていった。