「冬」

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喫茶店の外観

下町の小さな喫茶店。

カラン、と扉のベルが鳴る。
香り高い深煎りのコーヒーと、ほんのり甘いバターの香りが広がっていた。
窓際の席には、小さな観葉植物。葉には、冬の空がひそやかに映っていた。

店内には、学生が三人だけ。
窓際の席で学生たちはスマホを手に、笑いながらSNSに写真を投稿していた。
懐かしい制服に、ハルは目を細めた。

二人がけの席に腰を下ろす。
隣に置いた小ぶりなスーツケースに手を添えながら、店員にアメリカンコーヒーとミルクプリンを頼んだ。

店内にひとり座る

懐かしい制服のリボン

思い出す。

あの頃、自分も彼女たちと
同じ制服を着ていた。
今でいう「推し」のアイドルが表紙の雑誌を開き、ページの切り抜きを友達と分け合ったっけ。ライブのうちわを作りたかったのだ。

「A子は○ページ、B子は○ページね」
「待って、ここも欲しい! じゃんけんしよ!」

コーヒーが冷めても、ずっとおしゃべりが尽きなかったあの日々。テーブルに頬杖をつきながら、未来のことを語り合った。いつか素敵な恋をして、どこか遠くへ旅に出るのだと、無邪気に信じていた。

店員がコーヒーを運んできた。
カップから立ちのぼる湯気。そっと手を伸ばすと、窓の向こうに、ふわりと雪が舞い落ちるのが見えた。学生たちも雪に気づき、スマホを向けて写真を撮り始める。

「雪がやむまでここにいよう」
そう決めたらしく、店員に向かって「おかわりを3つ」とジェスチャーした。

ぷるぷるのミルクプリン

ミルクプリンが運ばれてくる。

銀色のトレーに乗った、足高の容器。白いプリンの上には、季節のフルーツで作られたジュレが宝石のように輝いている。その隣には、小さな赤いチェリー。

また、思い出す。

喫茶店のテーブルには、広げたガイドブックと地球の歩き方。

「ここ、行ってみたいね」
「ここの料理、おいしそう」

旅好きのふたりは、そうやって行き先を決めた。

ふたりでチェックをつけている旅行ガイドブック

「次はどこ行く?」

旅から帰っても、また次の旅の話をした。
あの名物は美味しかった、ここの景色は忘れられない、

「名物にうまいもんなしってほんとだな」
そんな話を繰り返しながら、また新しい場所を探した。

「旅の計画は楽しいね」
「行った先でも、帰ってからも、ずっと旅の話ばかりだな」

夫は笑ってそう言った。

「だって、話してるだけで、また行った気分になるもの」

カフェで話し込むふたり

去年。

久しぶりに喫茶店を訪れた。
夫は体調を崩してから、歩くのもゆっくりになっていた。それでも、コーヒーを一緒に楽しんでいる姿に変わらぬ笑顔が浮かんでいた。

「もう一度、あの名物が食べたいな」

ハルは笑って、頷いた。いろんな場所を旅行するのが好きだったが、特に気に入った場所だけは何度か訪れることがあった。

「また行きましょうよ」

叶わなかった約束。
旅好きのふたりは、最後の旅の話をしたまま、それを実現することはなかった。

しるしをつけていた旅行ガイドブック

ゆっくりと、しぼんだ湯気ごとコーヒーをごくりと飲んだ。

向かいの席に置かれたミルクプリンを、そっと引き寄せた。ジュレがこぼれないように気をつけながら、スプーンですくう。

夫と初めてこの喫茶店に来た日、彼はまだミルクプリンの味を知らなかった。
私はこの店のプリンが大好きだと、いつも彼に話していた。その時も、何気なく頼んだミルクプリンに、彼は驚いたように微笑んだ。
そして一口食べてから、

「これ、おいしいな」と言った。

ミルクプリンを食べる若い頃の夫

あの日から、このプリンは二人の思い出になった。

私が好きだったものを、彼が好きになってくれた。夫の笑顔と一緒に、あの味が心に残った。

それは、ただのデザートではなく、二人の時間そのものだった。
なめらかな喉ごし。やさしい甘さ。コーヒーの苦味と混じり、胸の奥に、静かに沁みていく。

スマホ

ストラップにかけたスマホが震えた。
画面に映るのは息子の名前。

「もしもし、母さん? 本当に一人で行くの? 心配だけど、楽しんできてね。何かあったらすぐに連絡して。帰りは駅まで迎えに行くから」

ハルは微笑んだ。
画面越しに小さなガッツポーズを息子に見せる。

会計を済ませ、コンパクトなスーツケースを手に取る。
その重さは、今までのどの旅とも違う。

店を出ると、雪はほとんど止みかけていた。
学生たちの笑い声が、ガラス越しに響いてくる。
彼女たちの未来は、どこへ続いていくのだろう。
どんな景色を見て、どんな旅をするのだろう。

「ねえ聞いて、話したいことがたくさんあるの」

ハルはスーツケースの取っ手を握り直し、ふっと息をついた。

歩き出すハル

雪解けの路面に、
小さな車輪の跡がひと筋、
静かに続いていく。